2011年6月26日日曜日

東洲斎写楽って?

江戸中期に突然現れた浮世絵師写楽はわずか10カ月で姿を消してしまいました。


長年、本名は判りませんでしたが、研究の結果現在では”阿波の能役者斎藤十朗兵衛”でほぼ間違いないといわれています。


当時、能役者は士分とされ商活動はご法度とされておりました。厳しい刑罰があったため偽名を使わざるを得なかったものと思われます。


写楽の一連の作品は大別して4期に分けられます。
第1期の作品は役者の大首絵28枚です。28枚を一挙に出版するという華やかなデビューでしたが、たったの2ヶ月で絵の寿命は終わりました。
その理由はいろいろと言われています。役者が役者を描いた分リアルで真に迫り、リアルすぎて役者仲間から不評・・・。他の絵師も大首絵の真似をしたため多く出回り飽きられた・・・。やっぱり役者のプロマイドはきれいで美しくなくては・・・。はたして???
これが第1期の全作品28枚です。
                     

 第2期は役者の全身像が描かれるようになりました。
そして第3期の作品には全身像に背景が加わりましたが鋭さは無くなり、第4期の作品になるとますます画が説明的になり線も荒くなって、最初のころのインパクトは見る影もありません。
急激な力の減退や版画としての品質の劣りは出版元の”蔦屋”の迷走のせいなのか・・・・・
こうして作品は売れなくなり、たったの10カ月で写楽は姿を消してしまいました。


6月初めまで東京国立博物館で特別展が開かれていました。この特別展には写楽の全作品150余図のうち、門外不出などを除いた141図が国内外から集められました。浮世絵は海外でのほうが早く価値が認められ、保存状態が良かったためか、色のきれいな見ごたえのある作品は海外からのものが多かったように思いました。


19世紀、開国された日本から多くの工芸品や文化がヨーロッパに渡りました。浮世絵は印象派の画家たちに大きな影響を与えたといわれています。
モネやゴッホは熱心に浮世絵を蒐集研究し、ゴッホは「ボンズとしての自画像」と呼ばれる絵を描いています。ボンズとは「坊主」のことで、頭を丸め目を「日本人風に」吊り上げた絵からは「日本の文化を丸ごと吸収したい・・・・」そんな決意のようなものが伝わってきます。

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