2011年11月23日水曜日

アドリア海沿岸を旅して。

宮崎駿監督の映画「紅の豚」・「魔女の宅急便」の舞台となったアドリア海に憧れ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを旅してきました。
想像以上の美しい景色に、映画の一シーン・一シーンを重ね合わせ、物語のその時代へと心を馳せました。
でも、美しい景色とは裏腹に3国がたどった近代までの歩みは非常に厳しいもので、異民族の流入や超大国による翻弄等々、他の国の支配を長いこと受け続けた戦いの歴史でもありました。

古代ローマ帝国に支配される以前のダルマチア地方にはイリュリア人やケルト人が住んでいました。ケルトやイリュリア人は青銅器時代から鉄器時代に至る鉄の文化を保持していて、抽象的な意匠のモチーフの金属加工を得意としていました。抽象的であったが故にかえって幅広く用いられケルトが滅びてからも後の世に生き残りました。                

ケルト・イリュリア人はローマ帝国に征服されましたが鉄器加工などの文明はローマ人を魅了し、その後の6世紀に流入したスラブ民族のクロアチア人のルーツとして現代に引き継がれています。ドブロヴニクの細かい銀細工加工は民族衣装に欠かせないばかりでなく、高級装飾品として町のショーウインドーに飾られています。この金属加工装飾技術は海を越え建築デザインにも影響を与え、教会にある大輪のバラ窓も銀細工からの発展といわれています。

また、ケルト人は樫の木を聖木としその実どんぐりを食べる猪を聖獣として崇めました。古い教会の彫り物の中には、自分たちのルーツとして大切にしてきたそれらのデザインが彫りこまれているのを見つけることができます。
  

クロアチアの都市ドブロヴニクの「ドゥブ」は樫の木という意味だとか・・・。
総督邸の「宝物館」には樫の木の葉と、どんぐり、猪が彫られているものがありましたが残念ながら撮影禁止ということで写真は撮れませんでした。  
ケルト・イリュリアの痕跡を見つけると気分も高まります。

古代ローマ帝国時代の遺跡はバルカン半島にたくさん残っています。プーラにある円形劇場は青空に映えて素晴らしかったです。今も現役でコンサートが開かれているとか。
                 

クロアチアからは古代ローマ帝国の皇帝も輩出しています。生まれ故郷に近いスプリトに宮殿を建てた3世紀のローマ帝国皇帝ディオクレティアヌス帝の金貨です。
                 

この古代水道橋はスプリトに向かう道すがらバスの中から写しました。
     

スプリトのローマ皇帝宮殿の地下室です。人間と対比してみるといかに大きいものか判ります。地下の構造は上の階を支えるもので、すっかり同じ間取りの部屋が地上にあります。
     

ローマ帝国は長い間キリスト教を禁教としてきましたが時代の流れには逆らえず、帝国末期に公認し国教としました。このローマ時代の石棺には初期キリスト教の十字架が彫られています。花の中に十字架があるロゼッタ紋といわれるものです。
                 

西ローマ帝国が滅んだ後、東ローマ帝国ビザンチンの支配となりました。ポレチュにあるエウフラシウス教会の素晴らしいモザイクはビザンチンの代名詞ともいえるものです。千数百年の時を過ぎてなおこの輝きです!
               
このモザイクはエウフラシウス教会の床面にあったものです。魚はイエスキリストを表しています。
      

その後、ベネチア共和国の支配を受けました。この塔は見張り塔として使われ、壁面にベネチアの象徴「翼をもったライオン」が彫りこまれています。プーラで見かけました。
      

14世紀ごろから強国になったオスマントルコは勢力を西へ西へとのばし攻め入り征圧しました。ボスニア・ヘルツェゴビナは長年その支配下にあり、有力な地方都市だったモスタルにはイスラム建築の最高傑作といわれている石橋「スターリ・モスト」があります。
1993年、内戦のため爆破されましたが国際的な援助もあり見事復活しました。近年はこの橋からの「飛び込み競技」が有名です。  また、現在北朝鮮の金正男の長男がこの町に留学しているようです。
                 

オスマントルコ帝国と並ぶ超大国ハプスブルグ、この双頭の鷲の紋章はトロギールで見かけました。その支配下であったことを物語っています。
                 

1806年、バルカン半島はナポレオンの侵攻を受け1813年まで支配されました。ドブロヴニクにあるドミニコ会修道院をナポレオンは定宿とし、修道士の散策する中庭に馬をつなぎ歴史ある柱廊に馬の水飲み穴を掘ってしまいました。
ドブロヴニクはベネチア共和国と覇権を争った海洋都市です。世界中を回っている航海士・商人が持ってくる外国の最先端の情報は非常に貴重なもので、それらを修道士は整理し記録し続けましたが、それはナポレオンが最も欲しがるものだったのです。
      

第一次・第二次世界大戦を経てバルカン半島のスラブ人はユーゴスラビアという国を造り上げました。
セルビア人でパルチザンの闘士であったチトー大統領がうまく国内をまとめていましたが、1980年に亡くなったあと国はまとまりを欠き、各地で民族運動が盛り上がりそれぞれが独立に向け動き始めました。利害が絡まり3国とも内戦に突入して、血で血を洗う凄惨な戦いになったのです。
国際的な介入もあり内戦はおさまりました。
それから20年余りが過ぎ、よく見ると建物のドアや壁に小さな弾痕は残っているものの見事復興を遂げました。これは、ドブロヴニクの展望台にある大砲の傷跡ですが負の遺産として残してあるそうです。
      

城壁にあいている銃眼や、海・山の方を向いている大砲は辿ってきた国の歴史をフッと考えさせます。
                     
                 

よくまとまっていた頃のユーゴスラビア時代を懐かしんでか、「チトー大統領の時代よもう一度」でしょうか、チトーの顔が刷り込まれたTシャツを目にしました。
                

いろいろな事を考え想った充実した旅でした。ホテルから見たアドリア海の美しい夕景に、今更ながらの世界平和を祈りました。
   

2011年10月30日日曜日

修復されて世界遺産になった橋

この橋はボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルにあるスターリ・モストという橋です。
1500年代、オスマントルコの支配下の時代に建てられたもので、造形的な美しさと建築技術の高さからイスラム建築の最高傑作といわれている橋です。

しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナでの激しい内戦により、橋は1993年クロアチア人により爆破されました。
昨日まで平和に暮らしていた隣人同士がユーゴスラビアからの独立をめぐりその是非を争い、それがクロアチア人、セルビア人、ムスリム人の民族間同士の 覇権争いに発展し民族浄化の嵐が吹き荒れたのです。補給路を断つと共に、ムスリムの象徴だった橋が狙われたのですね。1995年内戦はおさまりました。

2004年、国際的な援助と強靭な市民の力によって橋は再建され、翌年異民族融和と平和を象徴するものとして世界遺産に登録されました。


モスタルの町を歩くと、見事に復興した街並みの中に無残に壊れた建物が残っています。負の遺産として残すということでしたが戦争の愚かさを声なき声で語っているような気がします。


ユダヤ教のモスクです。敷地には何もなく、唯モニュメントだけがぽつんと立っています。


これは市内を走る路線バスですが日の丸が大きく目につきます。日本からの援助で走っているもので、立ち止まって見ているだけで、何台も目にしました。
海外に出て日の丸を見るのは嬉しいものです、


結局、内戦の結果ボスニア・ヘルツェゴビナは、ムスリム人とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人共和国の二つの構成体からなる連合国家として出発し、今に至っています。
民族間の問題は私などの想像をはるかに超えた複雑で難しい永遠の?です。

ちなみに北朝鮮の金正男の長男は、ここモスタルに留学しているということです。


2011年8月7日日曜日

本阿弥光悦 国宝白楽茶碗

長野のサンリツ美術館に本阿弥光悦作の国宝白楽茶碗(銘不二山)があります。
娘が嫁に行く時与えたものといわれます。豪快な造りと、そしてよく見ると朱色、だいだい色、赤色が地肌に透けて見え、それが時により刻々と変化する山の様子を連想させ、見あきることがありません。

光悦は、江戸時代徳川家康から京都洛北鷹ヶ峯の地を拝領し、一族、工匠等と光悦村をつくり制作に励みました。
鷹ヶ峯の良い土にふれ手すさびに楽茶碗をつくりましたが、折々に肩の力を抜いてつくられた茶碗の数々が多くの国宝・重文になっており、いかに非凡な感覚・才能の持ち主であったかをうかがわせます。

平安時代後期に日本固有の文化は生まれましたが、鎌倉、室町の時代は禅宗や墨絵など中国文化の華が咲きました。
平安朝の文化が衰えていく中に育った光悦は、大和絵や失われた王朝文化の優雅さに溢れた作品を作り出したいと、常に平安朝文化に目を向けていました。
俵屋宗達と作り上げた錦絵・蒔絵、もっとも光悦が得意とする書、独創的な工芸、多くが古典を題材に王朝の美に溢れています。
日本固有の文化を受け継ぎ展開していくことに生涯の意義を見出していたのかもしれません。

鷹ヶ峯の住居跡は今、光悦寺として観光客に開放されています。 有名な光悦垣が設えられ、優しい形の鷹ヶ峯も目の前に広がります。




江戸に幕府が開かれ、江戸文化が盛んになるにつれて江戸にはない王朝文化をもって対抗したいという気持ちもあったかもしれません。

2011年6月26日日曜日

東洲斎写楽って?

江戸中期に突然現れた浮世絵師写楽はわずか10カ月で姿を消してしまいました。


長年、本名は判りませんでしたが、研究の結果現在では”阿波の能役者斎藤十朗兵衛”でほぼ間違いないといわれています。


当時、能役者は士分とされ商活動はご法度とされておりました。厳しい刑罰があったため偽名を使わざるを得なかったものと思われます。


写楽の一連の作品は大別して4期に分けられます。
第1期の作品は役者の大首絵28枚です。28枚を一挙に出版するという華やかなデビューでしたが、たったの2ヶ月で絵の寿命は終わりました。
その理由はいろいろと言われています。役者が役者を描いた分リアルで真に迫り、リアルすぎて役者仲間から不評・・・。他の絵師も大首絵の真似をしたため多く出回り飽きられた・・・。やっぱり役者のプロマイドはきれいで美しくなくては・・・。はたして???
これが第1期の全作品28枚です。
                     

 第2期は役者の全身像が描かれるようになりました。
そして第3期の作品には全身像に背景が加わりましたが鋭さは無くなり、第4期の作品になるとますます画が説明的になり線も荒くなって、最初のころのインパクトは見る影もありません。
急激な力の減退や版画としての品質の劣りは出版元の”蔦屋”の迷走のせいなのか・・・・・
こうして作品は売れなくなり、たったの10カ月で写楽は姿を消してしまいました。


6月初めまで東京国立博物館で特別展が開かれていました。この特別展には写楽の全作品150余図のうち、門外不出などを除いた141図が国内外から集められました。浮世絵は海外でのほうが早く価値が認められ、保存状態が良かったためか、色のきれいな見ごたえのある作品は海外からのものが多かったように思いました。


19世紀、開国された日本から多くの工芸品や文化がヨーロッパに渡りました。浮世絵は印象派の画家たちに大きな影響を与えたといわれています。
モネやゴッホは熱心に浮世絵を蒐集研究し、ゴッホは「ボンズとしての自画像」と呼ばれる絵を描いています。ボンズとは「坊主」のことで、頭を丸め目を「日本人風に」吊り上げた絵からは「日本の文化を丸ごと吸収したい・・・・」そんな決意のようなものが伝わってきます。

2011年6月10日金曜日

現代茶室の美

京都、「楽」家の15代宗主楽吉左衛門氏は 「守破離」 のコンセプトのもと、土壁に変わるコンクリート壁による茶室を創りだしました。
茶道の祖といわれる千利休の茶室といえば、壁・柱等に自然素材を使った「侘」「寂」の茶室が頭に浮かびます。
現代に生きる現代人の感覚に合った茶室とはなにか・・・・・・・・・・。
人工光を使わない半地下にその「小間茶室」はありました。

一面の水は実は美術館の前庭なのです。琵琶湖を模した水面のその中におい茂る葦(ひめガマの穂)。
その向こうに見えるのが「広間茶室」のある建物です。 
地下にある「小間茶室」はこの水面の下になります。


「守破離」ーーー ひらた~く言えば「伝統を守り、尊び、そして殻を破り、離れて新感覚のものを創りだす 」ということでしょうか。    誰にでもできるというものではありません。      


路地へ・・・・・・・
枝折戸・手入れの行き届いた緑葉・苔・飛び石・・・の代わりに水とコンクリートと巨石で造られた
「水路地」が迎えてくれます。  水の設えはここが水面の下であることを表しています。
                                   (写真小冊子より)

「小間茶室」は明り取りから入ってくる葦の緑と黄色の混ざった自然光が障子にうつり、柔らかな光に満ちています。         季節により光の色が変わり秋には黄色一色になるとか。
神経が研ぎ澄まされるような美しさです。       言葉もありません。
                                  (写真小冊子より)

「広間茶室」に座りました。  まことに水の上に座っているような・・・・・・・。
そして私の日常では体感しえない静かな静寂な落ち着いた空気。 
 こんな空間を作り出せるとは!
                   (写真小冊子より)