2012年10月13日土曜日

シェイクスピアあれこれ

この夏、シェイクスピアの生地、英国のストラトフォード・アボン・エイボンを旅しました。
没後400年余りたちますが、シェイクスピアの作品は少しも古さを感じさせず、世界中の言語に翻訳され今もどこかで毎週のように上演されています。

シェイクスピアの生家と、近くにある小さいころ学んだ学校です。


生家の庭ではシェイクスピア劇の寸劇が演じられていました。
「マクベス」、「ロミオとジュリエット」そして「オセロ」等々、本場物の演技と花に囲まれた青空劇場・・・・・素晴らしかったです。

彼の妻となったアン・ハサウェイの生家も花に囲まれて美しく、建物は16世紀の頃の面影をよく残していました。
 
シェイクスピアの結婚は18歳の時で相手のアンは26歳でした。結婚式の時にはすでにアンは妊娠しており、生涯夫婦仲は良くなかったというのが定説になっています。相手を妊娠させてしまった為の強制的な結婚?  シェイクスピアにとっては不本意なものだったのかも知れません。21歳ですでに3人の子持ちでした。
 
ある劇の中に、こんなセリフがあります。   
   それなら自分より年下の女を恋人にするがいい
そうしないとお前の愛情は長続きしないぞ
女はバラの花のようなものだ。美しい花も
    いったん満開になってしまえば散るのは早い・・・
(本音でしょうか?)        

 

 これは生家の近くにあるRSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)の建物です。シェイクスピアの劇を毎日上演しています。この夜もロビーは賑わっていました。
 


 
シェイクスピアは孤高な芸術家などではなく、単身のロンドンで役者兼座付き作家としての名前が知られるようになったのは28歳頃のこと、その頃のロンドンにはたくさんの劇場があり多くの劇作家が活躍していました。その競争の中で他の劇団よりも常に集客力のある作品が要求され、仲間たちと一緒に娯楽を提供し、苦楽を共にする一演劇人であったのです。
 
46歳のころ引退宣言をして故郷のストラトフォード・アボン・エイボンに帰りました。ニュープレイスと呼ばれる豪邸を買い取り家族と一緒に暮らしましたが間もなく52歳で世を去りました。
その後屋敷は持ち主となった人が、余りにも多くの人が訪ねてくることに嫌気がさし取り壊してしまいました。その時隣にあった孫の家は今もそのままで残っています。
 
 シェイクスピアは今、家の近くにあるこのホーリー・トリニティ教会に眠っています。祭壇のすぐ前に埋葬されていますが、これは特別な事だそうで、熱心なキリスト教徒ゆえのたくさんの寄付をしたお陰だとか。
 
 
 いまだに世界中の人を引き付けてやみません。
 
 

 
 

2012年7月2日月曜日

夏に咲く花

このヒースの花は、フランス南西端の「ラ岬」に咲いていたものです
荒れ地にしか生育しないといわれているヒースの花は、美しく咲く花の向こう側にどこか「厳しさ」「哀しさ」が透けて見えるような気がします。

毎年、夏になるとヒースの花が咲き乱れるスコットランドやイングランド北部。この地にも歴史に流されていった哀しい物語がたくさんあります。

なかでも、イングランド支配に反抗し勇敢に戦ったウィリアムス・ウォレス。グレンコーの谷で虐殺されたマクドナルド一族。スコットランド王家の宿命に生きた女王メアリー・スチュアート。皆、最後は壮絶な死を遂げました。

でも、振り返ってみると、ウォレスの生涯は映画「ブレイブ・ハート」に描かれて多くの人に感動を与え、マクドナルドの名は今や世界中に知れ渡っている。そして、女王メアリー・スチュアートは断頭台に送られた後名もない教会に葬られていましたが、後にイングランド王になった息子によってウエスト・ミンスターに移され、歴代の王たちと並んで眠っている。

「これでいいのだ」・・・気の小さい私はこう思って心のケリをつけました。

小説「嵐が丘」の主人公たちが遊んだ野もヒースの咲く荒野でしたね。
復讐の鬼と化したヒースクリフですが、最後はその気持ちも薄れ、食べることも寝ることも忘れてキャサリンの幻を追いかけ、眠るように亡くなっていた・・・・。

ヒースの花を思うといろいろな事が頭をよぎります。


2012年3月4日日曜日

ためになることわざ

年をとると時の流れを非常に早く感じます。
なんとなく惰性で送っているような私の毎日。
アッと言う間に月日は過ぎていきます。


偉大な先人の「ことば」「ことわざ」は私の生活に時には”喝!”を、時には”刺激”を与えてくれます。

●口あけて はらわた見せる ザクロかな。


●賢者とは? すべての人から学びうる人。
●強者とは? 自己の熱情を統御しうる人。
●富者とは? 自らのくじ(運命の分け前)に満足を感じる人。
●尊い人とは? 人間を尊ぶ人。


●その人の行いがその人の知識より偉大なときは、その知識は有益である。しかし、その人の知識がその人の行いより大になるときは、その知識は無益である。


●さとき人は知恵を隠す、しかし、愚かなるものは(自分で)自分の愚かさを表す。


●愚かなる者のくちびるは、自分を捕えるわなとなる。


●隣人をあなどる者は知恵がない。


●剣をもって刺すようにみだりに言葉を出すものがある。しかし、知恵ある人の言葉は人を医す。


●愚かなるものは悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表すことのみを喜ぶ。




                ・・・・・・・・勉強になります・・・・・・・

2011年11月23日水曜日

アドリア海沿岸を旅して。

宮崎駿監督の映画「紅の豚」・「魔女の宅急便」の舞台となったアドリア海に憧れ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを旅してきました。
想像以上の美しい景色に、映画の一シーン・一シーンを重ね合わせ、物語のその時代へと心を馳せました。
でも、美しい景色とは裏腹に3国がたどった近代までの歩みは非常に厳しいもので、異民族の流入や超大国による翻弄等々、他の国の支配を長いこと受け続けた戦いの歴史でもありました。

古代ローマ帝国に支配される以前のダルマチア地方にはイリュリア人やケルト人が住んでいました。ケルトやイリュリア人は青銅器時代から鉄器時代に至る鉄の文化を保持していて、抽象的な意匠のモチーフの金属加工を得意としていました。抽象的であったが故にかえって幅広く用いられケルトが滅びてからも後の世に生き残りました。                

ケルト・イリュリア人はローマ帝国に征服されましたが鉄器加工などの文明はローマ人を魅了し、その後の6世紀に流入したスラブ民族のクロアチア人のルーツとして現代に引き継がれています。ドブロヴニクの細かい銀細工加工は民族衣装に欠かせないばかりでなく、高級装飾品として町のショーウインドーに飾られています。この金属加工装飾技術は海を越え建築デザインにも影響を与え、教会にある大輪のバラ窓も銀細工からの発展といわれています。

また、ケルト人は樫の木を聖木としその実どんぐりを食べる猪を聖獣として崇めました。古い教会の彫り物の中には、自分たちのルーツとして大切にしてきたそれらのデザインが彫りこまれているのを見つけることができます。
  

クロアチアの都市ドブロヴニクの「ドゥブ」は樫の木という意味だとか・・・。
総督邸の「宝物館」には樫の木の葉と、どんぐり、猪が彫られているものがありましたが残念ながら撮影禁止ということで写真は撮れませんでした。  
ケルト・イリュリアの痕跡を見つけると気分も高まります。

古代ローマ帝国時代の遺跡はバルカン半島にたくさん残っています。プーラにある円形劇場は青空に映えて素晴らしかったです。今も現役でコンサートが開かれているとか。
                 

クロアチアからは古代ローマ帝国の皇帝も輩出しています。生まれ故郷に近いスプリトに宮殿を建てた3世紀のローマ帝国皇帝ディオクレティアヌス帝の金貨です。
                 

この古代水道橋はスプリトに向かう道すがらバスの中から写しました。
     

スプリトのローマ皇帝宮殿の地下室です。人間と対比してみるといかに大きいものか判ります。地下の構造は上の階を支えるもので、すっかり同じ間取りの部屋が地上にあります。
     

ローマ帝国は長い間キリスト教を禁教としてきましたが時代の流れには逆らえず、帝国末期に公認し国教としました。このローマ時代の石棺には初期キリスト教の十字架が彫られています。花の中に十字架があるロゼッタ紋といわれるものです。
                 

西ローマ帝国が滅んだ後、東ローマ帝国ビザンチンの支配となりました。ポレチュにあるエウフラシウス教会の素晴らしいモザイクはビザンチンの代名詞ともいえるものです。千数百年の時を過ぎてなおこの輝きです!
               
このモザイクはエウフラシウス教会の床面にあったものです。魚はイエスキリストを表しています。
      

その後、ベネチア共和国の支配を受けました。この塔は見張り塔として使われ、壁面にベネチアの象徴「翼をもったライオン」が彫りこまれています。プーラで見かけました。
      

14世紀ごろから強国になったオスマントルコは勢力を西へ西へとのばし攻め入り征圧しました。ボスニア・ヘルツェゴビナは長年その支配下にあり、有力な地方都市だったモスタルにはイスラム建築の最高傑作といわれている石橋「スターリ・モスト」があります。
1993年、内戦のため爆破されましたが国際的な援助もあり見事復活しました。近年はこの橋からの「飛び込み競技」が有名です。  また、現在北朝鮮の金正男の長男がこの町に留学しているようです。
                 

オスマントルコ帝国と並ぶ超大国ハプスブルグ、この双頭の鷲の紋章はトロギールで見かけました。その支配下であったことを物語っています。
                 

1806年、バルカン半島はナポレオンの侵攻を受け1813年まで支配されました。ドブロヴニクにあるドミニコ会修道院をナポレオンは定宿とし、修道士の散策する中庭に馬をつなぎ歴史ある柱廊に馬の水飲み穴を掘ってしまいました。
ドブロヴニクはベネチア共和国と覇権を争った海洋都市です。世界中を回っている航海士・商人が持ってくる外国の最先端の情報は非常に貴重なもので、それらを修道士は整理し記録し続けましたが、それはナポレオンが最も欲しがるものだったのです。
      

第一次・第二次世界大戦を経てバルカン半島のスラブ人はユーゴスラビアという国を造り上げました。
セルビア人でパルチザンの闘士であったチトー大統領がうまく国内をまとめていましたが、1980年に亡くなったあと国はまとまりを欠き、各地で民族運動が盛り上がりそれぞれが独立に向け動き始めました。利害が絡まり3国とも内戦に突入して、血で血を洗う凄惨な戦いになったのです。
国際的な介入もあり内戦はおさまりました。
それから20年余りが過ぎ、よく見ると建物のドアや壁に小さな弾痕は残っているものの見事復興を遂げました。これは、ドブロヴニクの展望台にある大砲の傷跡ですが負の遺産として残してあるそうです。
      

城壁にあいている銃眼や、海・山の方を向いている大砲は辿ってきた国の歴史をフッと考えさせます。
                     
                 

よくまとまっていた頃のユーゴスラビア時代を懐かしんでか、「チトー大統領の時代よもう一度」でしょうか、チトーの顔が刷り込まれたTシャツを目にしました。
                

いろいろな事を考え想った充実した旅でした。ホテルから見たアドリア海の美しい夕景に、今更ながらの世界平和を祈りました。
   

2011年10月30日日曜日

修復されて世界遺産になった橋

この橋はボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルにあるスターリ・モストという橋です。
1500年代、オスマントルコの支配下の時代に建てられたもので、造形的な美しさと建築技術の高さからイスラム建築の最高傑作といわれている橋です。

しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナでの激しい内戦により、橋は1993年クロアチア人により爆破されました。
昨日まで平和に暮らしていた隣人同士がユーゴスラビアからの独立をめぐりその是非を争い、それがクロアチア人、セルビア人、ムスリム人の民族間同士の 覇権争いに発展し民族浄化の嵐が吹き荒れたのです。補給路を断つと共に、ムスリムの象徴だった橋が狙われたのですね。1995年内戦はおさまりました。

2004年、国際的な援助と強靭な市民の力によって橋は再建され、翌年異民族融和と平和を象徴するものとして世界遺産に登録されました。


モスタルの町を歩くと、見事に復興した街並みの中に無残に壊れた建物が残っています。負の遺産として残すということでしたが戦争の愚かさを声なき声で語っているような気がします。


ユダヤ教のモスクです。敷地には何もなく、唯モニュメントだけがぽつんと立っています。


これは市内を走る路線バスですが日の丸が大きく目につきます。日本からの援助で走っているもので、立ち止まって見ているだけで、何台も目にしました。
海外に出て日の丸を見るのは嬉しいものです、


結局、内戦の結果ボスニア・ヘルツェゴビナは、ムスリム人とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人共和国の二つの構成体からなる連合国家として出発し、今に至っています。
民族間の問題は私などの想像をはるかに超えた複雑で難しい永遠の?です。

ちなみに北朝鮮の金正男の長男は、ここモスタルに留学しているということです。


2011年8月7日日曜日

本阿弥光悦 国宝白楽茶碗

長野のサンリツ美術館に本阿弥光悦作の国宝白楽茶碗(銘不二山)があります。
娘が嫁に行く時与えたものといわれます。豪快な造りと、そしてよく見ると朱色、だいだい色、赤色が地肌に透けて見え、それが時により刻々と変化する山の様子を連想させ、見あきることがありません。

光悦は、江戸時代徳川家康から京都洛北鷹ヶ峯の地を拝領し、一族、工匠等と光悦村をつくり制作に励みました。
鷹ヶ峯の良い土にふれ手すさびに楽茶碗をつくりましたが、折々に肩の力を抜いてつくられた茶碗の数々が多くの国宝・重文になっており、いかに非凡な感覚・才能の持ち主であったかをうかがわせます。

平安時代後期に日本固有の文化は生まれましたが、鎌倉、室町の時代は禅宗や墨絵など中国文化の華が咲きました。
平安朝の文化が衰えていく中に育った光悦は、大和絵や失われた王朝文化の優雅さに溢れた作品を作り出したいと、常に平安朝文化に目を向けていました。
俵屋宗達と作り上げた錦絵・蒔絵、もっとも光悦が得意とする書、独創的な工芸、多くが古典を題材に王朝の美に溢れています。
日本固有の文化を受け継ぎ展開していくことに生涯の意義を見出していたのかもしれません。

鷹ヶ峯の住居跡は今、光悦寺として観光客に開放されています。 有名な光悦垣が設えられ、優しい形の鷹ヶ峯も目の前に広がります。




江戸に幕府が開かれ、江戸文化が盛んになるにつれて江戸にはない王朝文化をもって対抗したいという気持ちもあったかもしれません。

2011年6月26日日曜日

東洲斎写楽って?

江戸中期に突然現れた浮世絵師写楽はわずか10カ月で姿を消してしまいました。


長年、本名は判りませんでしたが、研究の結果現在では”阿波の能役者斎藤十朗兵衛”でほぼ間違いないといわれています。


当時、能役者は士分とされ商活動はご法度とされておりました。厳しい刑罰があったため偽名を使わざるを得なかったものと思われます。


写楽の一連の作品は大別して4期に分けられます。
第1期の作品は役者の大首絵28枚です。28枚を一挙に出版するという華やかなデビューでしたが、たったの2ヶ月で絵の寿命は終わりました。
その理由はいろいろと言われています。役者が役者を描いた分リアルで真に迫り、リアルすぎて役者仲間から不評・・・。他の絵師も大首絵の真似をしたため多く出回り飽きられた・・・。やっぱり役者のプロマイドはきれいで美しくなくては・・・。はたして???
これが第1期の全作品28枚です。
                     

 第2期は役者の全身像が描かれるようになりました。
そして第3期の作品には全身像に背景が加わりましたが鋭さは無くなり、第4期の作品になるとますます画が説明的になり線も荒くなって、最初のころのインパクトは見る影もありません。
急激な力の減退や版画としての品質の劣りは出版元の”蔦屋”の迷走のせいなのか・・・・・
こうして作品は売れなくなり、たったの10カ月で写楽は姿を消してしまいました。


6月初めまで東京国立博物館で特別展が開かれていました。この特別展には写楽の全作品150余図のうち、門外不出などを除いた141図が国内外から集められました。浮世絵は海外でのほうが早く価値が認められ、保存状態が良かったためか、色のきれいな見ごたえのある作品は海外からのものが多かったように思いました。


19世紀、開国された日本から多くの工芸品や文化がヨーロッパに渡りました。浮世絵は印象派の画家たちに大きな影響を与えたといわれています。
モネやゴッホは熱心に浮世絵を蒐集研究し、ゴッホは「ボンズとしての自画像」と呼ばれる絵を描いています。ボンズとは「坊主」のことで、頭を丸め目を「日本人風に」吊り上げた絵からは「日本の文化を丸ごと吸収したい・・・・」そんな決意のようなものが伝わってきます。